火牛の計の像
 この戦いで義仲は、完全に夜の帷がおりきったところを見計らって、村々から徴発した400から500頭の牛の角に松明を付け、鬨の声とともに平家の陣に追い入れ、大混乱に陥れ地獄の谷に戦意を失った敵を落としたそうです。これを「火牛の計」といいます。その後、義仲は上洛の道へと進みました。

 さて、ここには芭蕉が詠んだ「義仲の 寝覚めの山か 月かなし」の句碑あります。この句は芭蕉が朝日将軍とうたわれた木曽義仲の末路を涙して詠んだ句です。

義仲の・・・句碑
 
 またここには同じ句を刻んだ芭蕉塚がありました。津幡の俳人河合見風が宝暦時代に義仲ゆかりの地であるこの峠の猿ヶ馬場に往事を偲んで建立したものを後に至り金城馬佛が再建したものだそうです。

 なおこの句は越前燧ケ城跡で詠んだものであり、又諸国翁噴記にはこの句碑を寝覚め塚と記されています。

芭蕉塚
 芭蕉の木曽義仲に対する思い入れはとても強かったようです。彼の遺言により近江の義仲寺にある木曽義仲の墓のそばに芭蕉は埋葬されているほどです。
 
 ですからこの倶利伽羅峠を通った時はさぞかし感慨深いものがあったに違いありません。

 この義仲寺には芭蕉の辞世の句「旅に病んで 夢は枯野を かけ巡る」など多数の彼の句碑があるそうです。
 倶利伽羅峠の頂上から少し富山県側に降りていくと例の「あかあかと 日は難面も あきの風」の句碑がここにもありました。
金沢で詠んだはずの句が何故ここにあるか疑問が出てきます。

 ここにその句についての説明書きがあったので理解できました。この句は、越後路から越中、金沢にいたる旅の途中で得た旅情を金沢で一句に結晶させ7月17日北枝亭で発表されたものだそうです。
「篠原古戦場:首洗池」(加賀市)

 金沢を去った後小松市の多太神社に芭蕉一行は訪れています。7月25日と27日の2回です。この神社には木曽義仲が願状を添えて奉納したといわれる平家の武将斉藤別当実盛の遺品である兜・袖・臑当があります。

 それにまつわる古戦場が片山津温泉近くにあり訪ねてみました。
 
 寿永2(1183)年、倶利伽羅の戦いで木曽義仲に大敗した平家の軍勢は、加賀平野を南下し、篠原の地(現在の加賀市篠原町付近)で陣を立て直し、義仲との決戦を図りました。しかし勢いづいた義仲軍を阻止することはできず、平家軍はふたたび敗れ去りました。
 

首洗池
 このとき、敗走する平家軍で、ただ一騎踏みとどまって、戦ったのが斉藤別当実盛でした。実盛は老武者とあなどられることを恥とし、白髪を黒く染めて参戦しましたが、手塚太郎光盛に討ち取られ、劇的な最期を遂げました。
 
 樋口次郎兼光が討ち取った首をこの池で洗ってみると、黒髪はたちまち白髪に変わりました。それはまがいもなく、その昔、義仲の命を助けた実盛の首でした。
この物語は「源平盛衰記」などに記されており江戸時代から人口に膾炙されていました。

木曽義仲と兜の像
  その実盛着用の甲冑を、木曽義仲が多太神社に奉納したと伝えられており芭蕉が立ち寄った7月27日にこの兜によせて「むざんやな 兜の下の きりぎりす」と詠んでいます。

この句碑がこの篠原古戦場の首洗池そばにあります。(多太神社にもあるようです)


むざんやな・・の句碑
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 金沢でのゆかりの地をこうしてまわり終わると今度は金沢滞在前後の地を訪ねたくなりました。そこで休みの日に富山県境の倶利伽羅峠と石川県加賀市片山津にある篠原古戦場へ車で行ってみました。よってここからは番外編です。

 「倶利伽羅峠」(富山県小矢部市)
  富山県と石川県の県境にある倶利伽羅峠を芭蕉が曽良と通ったのは7月15日の朝だったそうです。その日の内に一行は金沢に入っています。 
 この峠は源平の合戦の古戦場としても有名です。 「源平盛衰記」は平維盛の軍と源氏の木曽義仲の軍がこの地で戦ったと伝えています。